西塔から北へ4キロほどのところにある。嘉祥3年(850年)、慈覚大師円仁が建立した首楞厳院(しゅりょうごんいん)が発祥である。
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横川中堂 - 新西国三十三箇所観音霊場第18番札所。旧堂は1942年、落雷で焼失し、現在の堂は1971年に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。本尊は聖観音立像(重文)。
根本如法塔 - 多宝塔で、現在の建物は大正期の再建。円仁が法華経を写経し納めた塔が始まりである。
元三大師堂-四季に法華経の論議を行うことから四季講堂とも呼ばれる。おみくじ発祥の地である。
文化財 [編集]
国宝 [編集]
根本中堂(附:須弥壇及び厨子3具)
金銅経箱 - 平安時代後期の金属工芸。横川から発掘された。
宝相華蒔絵経箱 - 平安時代後期の漆工芸品
七条刺納袈裟、刺納衣 - 最澄が持ち帰った、唐時代の染織遺品
伝教大師将来目録 - 唐の越州から最澄が将来した経典類の自筆目録
羯磨金剛目録 - 最澄自筆の将来品目録
天台法華宗年分縁起 - 最澄筆
六祖恵能伝 - 最澄が持ち帰った、唐時代の写本
伝教大師入唐牒 - 最澄の唐での通行許可書
光定戒牒(こうじょうかいちょう) - 「三筆」の一人嵯峨天皇の筆
重要文化財 [編集]
(建造物)
根本中堂回廊
転法輪堂(釈迦堂)
大乗戒壇院堂
瑠璃堂
相輪橖(そうりんとう)
常行堂及び法華堂(附:廊下)
(絵画)
絹本著色天台大師像
絹本著色天台大師像 有賛
絹本著色相応和尚像
絹本著色不動明王三大童子五部使者像
絹本著色文殊菩薩像
絹本著色山王本地仏像[2]
紙本著色山王霊験記
(彫刻)
木造釈迦如来立像(釈迦堂安置)
木造聖観音立像(横川中堂安置)
木造光定大師立像(旧所在山麓大師堂)
木造不動明王二童子像(旧所在無動寺明王堂)
木造降三世明王立像(旧所在無動寺明王堂)
木造軍荼利夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
木造大威徳明王像(旧所在無動寺明王堂)
木造金剛夜叉明王立像(旧所在無動寺明王堂)
木造四天王立像(旧所在根本中堂)
木造四天王立像 2躯(旧所在釈迦堂)
木造千手観音立像(旧所在山王院)
木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂)
木造維摩居士坐像(黒谷青龍寺旧蔵)
木造慈恵大師坐像(黒谷青龍寺旧蔵)
木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵)
木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵)
木造吉祥天立像(滋賀院旧蔵)
木造大黒天立像(律院旧蔵)
木造薬師如来坐像[3]
(工芸品)
尾長鳥繍縁花文錦打敷
(書跡典籍、古文書、歴史資料)
紺紙金銀交書法華経 8巻
紺紙銀字法華経 8巻
華厳要義問答 行福筆
悉曇蔵 8帖
伝述一心戒文 上中下 3帖
延暦寺楞厳三昧院解 天禄三年正月十五日
山門再興文書
道邃和尚伝道文
宗存版木活字(付属品共)
(子院所有分)
恵光院 絹本著色不動二童子像
実蔵坊 絹本著色毘沙門天像 水晶舎利塔
大林院 絹本著色不動明王二童子像 木造不動明王坐像
寿量院 木造阿弥陀如来坐像
乗実院 木造阿弥陀如来立像
恵日院 木造慈眼大師坐像
求法寺 木造慈恵大師坐像
明徳院 絹本著色地蔵菩薩像
妙行院 木造地蔵菩薩立像
玉蓮院 木造不動明王二童子立像
弘法寺 金銀鍍水瓶 法華経(装飾経)
上記のほか、以下の重要文化財についても、延暦寺が「管理団体」(文化財保護法第32条の2の規定に基づく)に指定されており、比叡山国宝殿に保管されている。
明王院(大津市葛川坊村町)所有
紙本著色光明真言功徳絵詞
絹本着色不動明王二童子像
木造千手観音・不動明王・毘沙門天立像
葛川明王院文書
葛川与伊香立庄相論絵図
葛川明王院参籠札
蓮台寺(滋賀県栗東市)所有
木造薬師如来両脇侍像
滋賀県指定文化財 [編集]
(建造物)
阿弥陀堂鐘楼
四季講堂
なお、境内は国の史跡に指定され、「比叡山鳥類繁殖地」として天然記念物に指定されている。 また、1994年12月、「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産に登録された。
焼失した文化財 [編集]
1942年7月30日、落雷による火災で以下の建造物1件、工芸品1件が焼失した。
(旧)横川中堂 - 旧国宝建造物。
銅筒 - 金銅経箱(現国宝)の付属品だったもの
1956年10月11日、放火により以下の建造物2件、彫刻3件(いずれも当時重要文化財)が焼失した。
(旧)大講堂
大講堂鐘台
銅造釈迦如来坐像
木造持国天・多聞天立像
木造阿弥陀如来坐像
厳しい修行 [編集]
籠山行 [編集]
比叡山の修行は厳しい。山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない。常行堂で行なう修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である。90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである。法華堂で行なわれる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる。
十二年籠山では好相行が義務付けられており、好相行を満行しなければ十二年籠山の許可が下りない。好相行とは浄土院の拝殿で好相が得られるまで毎日一日三千回の五体投地を行うものである。好相とは一種の神秘体験であり、経典には如来が来臨して頭を撫でるとか、五色の光が差すのが見えるという記述もあるが、その内容は秘密とされている。早い者で1~2週間、何年もかかって好相を得る者もいるという。
千日回峰行 [編集]
千日回峰行は、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峰行は七年間にわたる行である。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。
700日目の回峰を終えた日から「堂入り」が行なわれる。無動寺谷明王堂で足かけ九日間(丸七日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥(「臥」とは、横たわること)の行に入る。入堂前に行者は生き葬式を行ない、不動明王の真言を唱え続ける。出堂すると、行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨(だいあじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入り、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻り、千日を満行する。この行を終えた行者は延暦寺の記録では47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には現存の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる。
なお、千日回峰行を終えた者は京都御所への参内が許される。通常、京都御所内は土足厳禁であるが、千日回峰行を終えた者のみ、御所へ土足のまま参内できる。
組織暴力団との関係 [編集]
2006年4月21日、延暦寺にて指定暴力団山口組の歴代組長の法要を実施した。この件については事前に滋賀県警察から「組織の権力誇示と香典名目の資金集めに利用される」として法要の中止要請がなされていたが、延暦寺側は「これは単なる宗教の行事」として要請を拒絶し、その後、延暦寺内阿弥陀堂において法要式典の中では最高級とされる「特別永代回向」に最高幹部ら100名近い組員が参加し執り行われた。
同寺を含め全国にある約75,000の寺が所属する財団法人全日本仏教会は、約30年前の1976年、全日本仏教徒会議において「暴力団排除」の決議を行っており、また2006年3月13日には全日本仏教会理事長である安原晃が「組織暴力団の義理かけ法要への協力を止めよう」との声明を発表した直後であった。法要後、全日本仏教会は、これらの決議及び声明を無視した延暦寺側に対して遺憾の意を表明した。
警察が暴力団対策法に基づき展開している「暴力団追放3ない運動」の一つである「暴力団を利用しない」という理念に反し、暴力団から布施を受け取る形で「暴力団を利用した」点について、滋賀県警察からの「中止要請を無視」(ここでいう『要請』は官公署としての強制力を持つものではない)し暴力団側の権力誇示に加担した。
後日法要が終わったのち、この式典について延暦寺法務部は報道陣に対し「次からは暴力団の法要は拒否したい」とのコメントを述べたものの批判を避けることはできず、社会的責任を取るべきと判断した同寺は5月18日、大津市内で「一山協議会」を開き、代表役員の執行と、6人の執行局役員全員が責任を取って総辞職した。その中で同寺は寺院関係者及び全日本仏教会への謝罪を表明しており、ホームページにおわびを掲載、宗内の約3000寺に「おわび状」を郵送している。延暦寺が取ったこれら一連の処置の是非については賛否が分かれている。